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ソニー伝説は何処へ? エンタテイメントの為に霊魂まで研究対象とした昔? [国際情勢]

SONYと言えば盛田昭夫氏が有名ですが・・・実際は外交の盛田・・・技術の井深と言うこの二本柱により均衡が保たれ、戦後日本を代表づる同社の発展の足掛かりとなったのです。


米国のコロンビアぴ映画を買収し・・・人魂や幽霊の研究を本気で行っていたころの勢いは全くないのです。





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◆ソニー井深伝説!就活失敗と「走るネオン」 (日経ビジネス様)



革新的な製品を続々と送り出してきては世界に名を馳せてきたソニー。昨今ではややその神通力も衰えてきてはいるようだが、日本発の企業として、全 世界に認知されているということは間違いない。今回キーマンとして紹介するのは、そんなソニーの創業者の1人である、井深 大氏(以下敬称略)である。


井深 大は、1908年に栃木県日光町(現・日光市)にて誕生した。2歳の時に父が死去したため、愛知県安城市に住んでいた祖父に引き取られることとなった。父 親代わりの祖父が組み立て玩具や電気時計を与え、井深は機械いじりに興味を持った、小学校を卒業すると、再婚した母とともに兵庫県神戸市へ。この頃から無 線に興味を持ち、深くのめり込んだという。


神戸の中学を卒業した井深は、上京して第一早稲田高等学院へ進学。そのまま早稲田大学理工学部へ進学した。井深は大学ではいくつかの発明をしてい る。代表的なのは「走るネオン」。ネオン管に高周波電流を流して周波数を変えることで表示を変化させることができた。井深は走るネオンの特許を取得した。




◆井深 大(まさる)氏とは?


1908年  栃木県日光町にて誕生。
1938年 早稲田大学理工学部を卒業。
1940年  日本光音工業社へ入社。盛田と知り合う。
1946年 東京通信工業株式会社を設立。
1958年 社名をソニーに変更。
1975年 会長に就任。
1997年  死去。享年89歳。




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◆就職の失敗がSONT設立のきっかけ


1938年、大学卒業に際し、井深に1つのターニングポイントが訪れる。彼は当時すでに大企業だった東京芝浦電気(現・東芝)の新卒入社試験を受 験した。


ところがこれに落ちてしまったのだ。第二希望の写真化学研究所(PCL)に入社。入社してまもなく、学生時代に発明した走るネオンを製品化される こととなり、同時にパリ万博にも出品されることとなった。そしてなんと金賞を獲得してしまったのだった。若き技術者として井深の名前が知られるキッカケと なったのだった。


1940年、井深は日本光音工業社へ移籍。またここで彼の人生を変える出会いがあった。同社は基本的に無線機器を扱う企業だったが、関連会社では 当時の情勢に漏れず軍需事業を手がけていた。井深はその関連会社の常務に就任し、熱線誘導兵器を開発したのだが、そのとき付き合いのあった海軍の中尉だっ たのが、のちのソニー共同創業者である盛田昭夫だったのだ。


盛田と将来について語り合ったものの、戦火が激しくなり、井深は幾人かの社員とともに長野に疎開した。


無線機器を開発・製造する事業は棚上げとな り、井深にとっても欲求不満の募る日々だったことだろう。そのせいか、1945年の終戦の日(8月15日)の翌日、疎開していた社員たちと東京に向かっ た。


新たに会社を起業するのが目的だった。実際には、東京で事務所として使える無事な物件を探すことすら困難だったらしく、事務所開きまでには2カ月ほど かかったようだ。ともかく同年10月、井深は日本橋に東京通信研究所を設立した。


とはいえ、何をして稼げばいいか、戦後間もなく皆目見当がつかないのが実情だった。そこで井深らはまず、戦中に故障したラジオの修理と改造を事業 として手がけたのだった。その事業が新聞に取り上げると、思わぬ反響があった。それは一般読者だけではなく、戦時中に連絡の途絶えていた盛田からの連絡 だったのだ。


盛田は研究所に顔を出すようになり、井深との交流がまた始まった。なお、ラジオの修理事業の次は電気炊飯器を開発・販売したが、満足のいく製 品ではなかったという。




◆盛田昭夫氏との協


そして翌1946年、井深は盛田を正式に常務に迎え、東京通信工業株式会社を設立した。


井深は専務に就任。これこそがのちのソニーとなる企業の創 業の瞬間である。同社の経営方針は「一般消費者の生活を豊かに、便利にする製品の提供を目指す」というものだった。


そして井深は、創立にあたって、「大き な会社と同じことをやったのでは、我々はかなわない。しかし、技術の隙間はいくらでもある。我々は大会社ではできないことをやり、技術の力でもって祖国復 興に役立てよう」と挨拶した。資本金はわずかに19万円。ほとんど何もないのと同然の起業だったのだ。


しかしここでいまさら言うまでもなく、同社はその後次々と斬新な製品を送り出す。1951年にはテープレコーダーを開発した。これは井深が、 GHQが所有していたテープレコーダーを見て、より良い製品を開発したいと考えたからである。オープンリールのテープレコーダーを小型化して開発すること に井深はこだわり、見事に成功し、ポータブルなレコーダーを販売した。

高価であり余り売れなかったのですが・・・最初に買ってくれたのが・・・何と・・・新橋のやきとり屋さん・・・。


その後も同社は斬新な製品を送り出した。1955年にはトランジスタラジオを販売した。トランジスタの量産化は世界の電気機器を変えるほどの偉業 だった。なおこの頃、同社でトランジスタの量産化を担当していたのは江崎玲於奈だった。
その時、唯一金を貸してくれたのが・・・三井銀行であり・・・未だにメインバンクは三井住友銀行である。



1961年にはトランジスタテレビの開発・発売にも成功している。 その他の製品についても枚挙にいとまがないが、井深の手によるもので世界に影響を及ぼした製品としては、トリニトロンテレビ、ベータマックスビデオなどの 開発がある。なお同社は、1958年に社名を正式に「ソニー株式会社」と改めている。


斬新な製品を生み出し続けたソニーだったが、「ソニーは大企業のモルモット」と評されたことがある。産み出す先進的な製品がすべて後進の大企業に 真似されることになったからだ。


しかし井深はそんな評価に対し、「決まった仕事を、決まったようにやるのは“時代遅れ”。商品化に対するモルモット精神を 上手に生かしていけば、いくらでも新しい仕事ができてくるということだ」として、あくまで新たな製品の開発に邁進した。ソニー自体が成し遂げた数々の製品 についてはここでは割愛する。


井深は1975年にソニー会長に就任。1977年には名誉会長となっている。若くして最前線から退き、後進にソニーという会社をゆだねた形だ。そして1997年に亡くなっている。


井深がソニーを創業し、成し遂げた偉業は、創業時にあった「一般消費者の生活を豊かに、便利にする」ということに尽きる。その心意気が、最新の斬新な製品を生み出す推進力だったのであろう。



◆学歴無用論の会社組織


盛田は生前社員に『みんな知恵を出せ』『知恵の出せないやつは汗をだせ』『知恵も汗も出せない奴は去れ』と社員にハッパを掛けたのです。



馬鹿な今日では『パワハラ』発言である。


大企業にある・・・学歴重視論を軽視し・・・・個人の実力主義が会社を支えたエネルギーとなったことは余り知られていない。


ソニーの学歴無用論は本物だったのです。


各地の工場長も高卒は当たり前・・・技術とやる気で会社を支えたのです。


しかし、会社が大きくなると病魔のようにはびこるのが・・・東大卒・・・と言う特権意識を持った組織なのです。



次から次へと・・・優秀な高卒工場長を追い込んでいったのです。


いう事をきかない研究者はどんどん辞めて行き・・・他社に流れ・・・ソニーに井深大氏や盛田氏達の企業理念は完全に忘れられたのです。


ソニーの復活・・・会社の統廃合等で見た目の収益向上だけに走る現在のソニーに井深大や盛田は失望していることだろう?












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