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中島みゆき(66歳は天才文? 2018年の公演予定! [歴史]

/ 人間的には知らないが中島みゆきのッ地上の★
を聞いていたら止まらなくなった。


【みんなどこへ行った・・・見送られることも無く】


と熱唱しているのですが・・・凡人には中々気付かない
フレーズですよね?


中島みゆきー地上の星 / 中島みゆき [公式]
https://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE


オフィシャルサイト
https://www.miyuki.jp/


2018チケット販売サイト
https://www.viagogo.jp/Concert-Tickets/J-Pop/Miyuki-Nakajima-Tickets?AffiliateID=49&PCID=PSJPYJPCONMIYUK1CAAE794BC-000000-265


天才は男なんぞに興味も無く生涯独身の66歳
元気な天才文学者なのです。




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◆天才は貴人・奇人


こういう頭の良い人だから『地上の星』のような



デビュー前哲学的な歌・詩が書けるのだろう。
参考までに下記経歴をご一読ください。



【幼年期 】
祖父は帯広市議会議長なども務めた中島武市、
父・眞一郎は北海道帝国大学医学部出身の産婦
人科医で中島産婦人科院長。札幌市に生まれ、
5歳のときに岩内に引っ越し、11歳までを岩内
で過ごす。帯広に移り、市立帯広小学校を卒業、
市立帯広第三中学校に入学する。


1966年の夏には体調不良の母親が実家で一時
療養するのに合わせて山形市に移り、市立第六
中学校に通うが、高校受験のため4ヶ月で帯広に
戻る。その後、帯広柏葉高校を経て、藤女子
大学文学部国文学科を卒業する。

帯広柏葉高校3年生の時、文化祭(第20回柏葉祭
・1969年9月1日)で初めてステージを踏む。
この時歌ったオリジナル曲は、「鶫の唄」で
ある。大学時代は、放送研究会に所属し、
ローカルラジオ局でスタッフのバイトなどを
する。北海道大学フォークソングのメンバーと
交流を持ち、活発に音楽活動を展開し、「コン
テスト荒らし」の異名をとった。「フォーク
音楽祭札幌予選」では「私の窓から」を歌ってい
る。1972年には「フォーク音楽祭全国大会」に出
場し、「あたし時々おもうの」で入賞している。
この時の音源は大会実況版としてLP化されている[。


後年、コンテストに出場したのは交通費や弁当代が
支給されるので、バイト代わりであったと述べてい
る。
大学卒業後は帯広に帰り、家業を手伝うかたわら、
アマチュア活動を続ける。ジャズ喫茶オーディオ
のマスター、渡辺晃が主催した「自由集団」の企画
で多くのステージを踏んでいる。 デビュー前に地元
では既に多くのファンを獲得しており、オリジナル
曲は既に100曲以上存在していたが、それらの一部は現在でも音源化はされていない(後述の「未音源化楽曲」を参照)。


【プロデビュー】

1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催
による「第9回ポピュラーソング・コンテストに
「傷ついた翼」が入賞した。
9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・
レコードからレコード・デビューを果たす。
1975年10月の「第10回ポピュラーソング・コン
テスト」に「傷ついた翼」から急遽差し替えた
「時代」によってグランプリを受賞した。
11月の第6回世界歌謡祭 でもグランプリを受賞
した。「時代」は12月に2作目のシングルとして
発売。


これをきっかけにミュージシャンとしての実力
をヤマハミュージックの川上源一に見出される。
その後中島は川上を現在に至るまで師父のよう
に仰いでおり、中島のアルバムには、今日に至る
まで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD
川上源一」と記載されている。

ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージ
シャンが多い中で、中島はヤマハをそのまま自分の
拠点としている数少ないミュージシャンである


1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞
こえますか』を発表。
その後現在まで、1年につきアルバム約1枚の
ペースでコンスタントに作品を発表し続けてい
る。


同年には研ナオコに提供したシングル「LA-LA-LA」と
「あばよ」が大ヒット、ソングライターとしての名を
世間に知らしめる。
同年大晦日『第27回NHK紅白歌合戦』で研ナオコが
「LA-LA-LA」で出場、一挙に認知度を広める。


翌1977年には歌手としても「わかれうた」が70万
枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとして
の地位を確固たるものにした。

作詞家・作曲家としても、先述の研ナオコに提供した
「かもめはかもめ」をはじめ、桜田淳子「しあわせ
芝居」、増田けい子「すずめ」など数多くのヒット
曲を世に送り出し、大きな成功を収めた。


数少ない出演番組のひとつとして1977年から放送
された『コッキーポップ』がある。

その中で披露された「時代」では第6回世界歌謡祭グランプリ受賞の様子がインサートされ、「この空を飛べたら」においては加藤登紀子と共演している。

歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録さ
れていた1978年発表の4枚目のアルバム
『愛していると云ってくれ』には「世情」と
いう楽曲が収められている。後年にTBS系ドラ
マ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて
大きな話題を呼び、シングル・カットされな
かったにもかかわらず中島の初期の代表曲のひとつ
となっている。『親愛なる者へ』以降、1985年発表
のアルバム『miss M.』までの8枚のスタジオ録音
アルバムは連続でオリコンのアルバムチャートで
1位を獲得している。1977年発表のアルバム
『あ・り・が・と・う』から1996年発表のアルバム
『パラダイス・カフェ』までの22枚のスタジオ収録
アルバムは連続で同チャートで10位以内を獲得して
いる。


【1980年】

1979年、ニッポン放送『中島みゆきのオールナ
イトニッポン』(月曜1部)がスタートし、番
組においての軽妙な語り口がリスナーのあいだで
大きな人気を集めた。


1980年代前半にはミュージシャンとして更に大き
な人気を集めており、1981年のシングル「悪女」
はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位
を獲得し、1982年の年間チャートでも6位を記録、
この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年
発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達した。1983年には柏原芳恵に提供した「春なのに」が
大ヒットし、第25回日本レコード大賞の作曲賞を
受賞した。


以降アルバム・セールスは下降線を辿り、1980年代
中期から後期にかけてはサウンド・アプローチや作風
そのものについてもひたすら模索する時代が続いた。

甲斐バンドの甲斐よしひろやクリスタルキングなど
をプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、
テッド・ジェンセンやラリー・アレキサンダーなど
によるニューヨークでのミキシングなどに臨んで
いる。1985年発表のシングル「つめたい別れ」
ではスティーヴィー・ワンダーの吹くハーモニカ
を大々的にフィーチャーしている。

中島は後年になって模索に励んだ1980年代中期
を振り返り、「御乱心の時代」と称している。
自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、
職業作家としては工藤静香の「MUGO・ん…色っ
ぽい」、「黄砂に吹かれて」などの作詞を担当
した。

「御乱心の時代」は、1988年のアルバム
『グッバイガール』のプロデュースを手が
けた瀬尾一三との出会いによって収まるこ
ととなる。中島にとって「これまで自分が
やってきたあらゆるスタイルに対処してくれ
る」という瀬尾は適任らしく、現在に至るま
での全てのオリジナルアルバムでアレンジ、
プロデュース、演奏に携わっている。1989年か
らは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇と
コンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)
をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演
するようになる。

義理堅い中島みゆき・・・・応援したくなりますよね?





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kage



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