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江戸っ子ワールド! 2019/04/30 [日本の習慣]


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皇居に陣取る楠木正成像と現皇室の先祖? [日本の習慣]

多くの方が皇居を訪問するのではないだろうか・・・そして皇居の
入り口・東京駅側にある楠正成像に気付く方も多いのではないだろうか?


現天皇は『南朝』の末裔なのです。


脈々と続く日本と皇室の伝統なのです。


5分でわかる南北朝時代
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/7383





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◆皇居前の楠正成像が教える歴史の真相


足利氏と戦った後醍醐天皇が設立したのが・・・『南朝』であり、その南朝を最後まで支えたのが・・・山賊上がりの楠木正成だったわけです。



正成.jpg



いろいろな説があるのですが、この皇居前の楠木正成像が歴史の真実を語っているように思うのです。





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◆楠木正成とは?




鎌倉幕府を支える武士というのは開拓武装農民のことで、農民たちが自分の農地を守るために武装して自衛したことが始まりです。
ですからこの時代の武士はほとんどが兼業農家です。


一方で楠木正成は厳密にいえば武士ではなく「悪党」と呼ばれるグループに属する人です。真田と同じ地方の山賊の一種。ですから楠木正成の出自は余り明かされることが無いのです。


商業や運送業が発展してくると、これらの人々も自分たちの商品を守るために武装するようになってきます、武装商人や武装運送業者は武士とは呼ばれず、「悪党」と呼ばれました。


「悪」という言葉は今と少し意味が違って、かっこいいイメージがありました。
なので「悪党」というのは、「悪い奴ら」という意味では無く、「クールな奴ら」くらいの意味だと思います。


後醍醐天皇という人はそうとうな魅力というかカリスマ性があったんでしょうね、楠木正成は後醍醐天皇に出会って、瞬時に惚れこんでしまうんです、それはもう熱烈なファンになってしまうんですね。


後醍醐天皇から「頼りにしているぞ」とか言われて、それで「なんとしてでも陛下をお助けして皇室を盛り立てなければ」と決心し、命懸けで頑張るわけです。


後醍醐天皇は倒幕(鎌倉幕府)を目指していますから、後醍醐を応援すると言うことは幕府の大軍と戦うということです。


正面きっての戦いでは当然敵いませんから、正成はゲリラ戦で対抗します。
これは武士にとってはルール違反の卑怯な戦法なのですが、正成は武士ではなくて悪党なので気にしません。


こうして正成が少数の兵で幕府の大軍と何ヶ月も戦い続けたことや鎌倉将軍の無能や武士たちの幕府に対する不満などもあって、最終的に倒幕は成功します。


倒幕が終わってしまえば、後醍醐にとって正成はもう必要ないわけで、一応功労者なので官位とかは与えますけど、遠ざけるようになります、後醍醐という人はそもそも武士とか悪党みたいな人間が大嫌いで、倒幕のためにやむを得ず利用しただけだからです。


幕府が倒れても、社会基盤の中枢を担っているのが武士であるという状況が変わったわけではありません、しかし後醍醐の建武の新政は武士を軽視した時代錯誤なものだったので、一旦は後醍醐に味方した足利尊氏が旗頭となって武士たちが叛旗をひるがえします。


足利尊氏は一度敗れて九州へ落ち延びますが、九州で勢力を盛り返しどんどん軍団を大きくしながら京都へとせまってきます、正成は今度こそ勝利を得るのは不可能と考え、再度ゲリラ戦で時間を稼ぎその間に後醍醐を落ち延びさせようと、その旨を進言しますが、後醍醐は今や皇室の正規軍たる軍団がゲリラ戦などもってのほかとこの案をしりぞけ、正面から正々堂々と迎え撃つことを命じます。


ことここにいたってはやむなしと、正成は湊川で足利軍を迎え撃ち奮戦するも衆寡敵せず、討ち死にします。


正成という人は、才能にあふれ、胆力、人望もあり、なにをやっても多分大成功した人物です。


唯一、後醍醐という人に魅入られたのが、このひとにとって不運だったと思いますが、回りが思うほど悲劇ではなく、案外本人は心酔した相手のために最後まで命をかけて尽くすことができ、幸せだったのかも知れません。





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◆笠置山の戦い



幕府による政権維持に陰りが見える中、後醍醐天皇が現れる。


天皇自らが政治の実権を握るという野心に燃えていた。しかし、兵を持たない天皇が戦うためには新たな兵力が必要となる。そこで目をつけたのが楠木正成だった。


一方、足利尊氏(あしかが たかうじ)は鎌倉幕府の有力御家人の子に生まれた。その家系は、源氏嫡流に最も近い源姓足利氏の棟梁の家系。


そして、後醍醐天皇が倒幕を掲げ、笠置山で挙兵した「笠置山の戦い」で尊氏と正成は出会う。


笠置山に陣をおく後醍醐天皇に呼応して、正成は河内赤坂に城を築いた。集めた兵はなんと悪党わずか500人。これに対し幕府は、尊氏を含めた数万にも及ぶ大軍を派遣。


押し寄せた幕府の大軍は笠置山の後醍醐天皇を包囲。天皇は捕らえ、隠岐へと流される。


残るは赤坂城の正成。数万の敵が取り囲んだが、正成は幕府軍相手にゲリラ戦を展開。数々の奇想天外な戦術を繰り出した。壮絶に散ったと幕府側に思わせた。


尊氏だけは、正成はすでに逃去ったと違う判断をする。尊氏の見抜いた通り、正成は全軍を引いていた。後醍醐天皇と正成が起こした乱は幕府側に鎮圧された。しかし、尊氏の脳裏に、楠木正成という名が強烈に刻まれたのである。




◆建武の新政


笠置山の戦いでの楠木正成の活躍は天下に広まり、各地で悪党の決起を煽った。楠木正成が再び兵を挙げる。北条勢が占領していた赤坂城を取り戻し、金剛山に千早城を築き籠もった。死んだとされていた正成の復活に幕府は驚いた。


さらに、隠岐に流されていた後醍醐天皇が伯耆国の悪党、名和長年の助けを借りて島から脱出したという驚くべき事が起こった。


そして、後醍醐天皇は全国の武士や悪党に倒幕の決起をあおる綸旨を大量に書き送る。


一方、正成と後醍醐天皇の復活に慌てた幕府は尊氏のもとに反乱を鎮圧する総大将となるよう要請を送る。尊氏は、北条高時から頼朝公以来の源氏の白旗を預かり正成がいる千早城へ征伐に向かった。


そして尊氏が丹波の国・篠村八幡宮に入った。後醍醐天皇の綸旨は、尊氏のもとにも届く。幕府を見限っていた尊氏は後醍醐天皇側と内通。尊氏は幕府に反旗を翻し、天皇軍に寝返ったのだ。正成を攻めるはずの2万5千の兵は、京都の幕府の出先機関、六波羅探題を攻め落とし、都を制圧。


時を同じくして上野国では新田義貞が幕府から寝返って、鎌倉に攻め入る。そうしてここに鎌倉幕府が滅亡に至った。


倒幕を果たした後醍醐天皇は新政権を樹立するために京へ凱旋。途中、正成と再会を果たした。正成は天皇の護衛という最高の名誉を与えられ、尊氏も後醍醐天皇から勲功第一とされた。後醍醐天皇のもとで二人のライバルは、晴れて仲間となったのである。


1333年6月、後醍醐天皇はついに新政権を樹立。元号を「建武」と改め天皇自らが政治を行う親政をスタート。建武の新政である。


しかし、この新政が、正成と尊氏の関係を再び引き離すこととなる。




◆室町幕府の始まり




建武の新政は、様々な問題を抱えていた。


また天皇自ら政権運営に挑むも次第に批判が高まっていった。


新政で役人となった正成も朝廷では、ねたまれる存在となった。一方、新政に不満を持つ武士が頼りにした人物が足利尊氏だった。


尊氏は朝廷と距離を置いていた。また尊氏は、頼朝以降、武士の長の称号であった「征夷大将軍」の地位を望むも、後醍醐天皇はそれを与えなかった。強力な力を持った尊氏が、幕府を復活させることを怖れた。


ここで波乱が起きる。独自の武家政権への動きを見せ始めた。これを謀反と見た後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を命じる。


尊氏は瞬く間に新田を撃破。そこで正成は後醍醐天皇に足利尊氏と和睦をするべきと進言をする。


しかし、天皇には受け入れられなかった。天皇をはじめ公家達は、建武の新政が崩壊の危機から免れたことに浮かれていた。


翌年、正成が危惧していたことが起きる。西国の武士を集め尊氏が再び兵を挙げた。その際、後醍醐天皇と反目していた光厳上皇を担ぎ出し、新田義貞討伐という大義名分を手にしての出兵だった。戦を前に、正成は秘策を持ち出した。尊氏軍数万に対して、正成軍わずか700。天皇が京を明け渡し、そこに海からやって来る尊氏を誘い込む。



そのすきに正成が尊氏の水軍を攻撃し兵糧を断つ。そして京で孤立した尊氏を叩くという、唯一無二の戦術だった。しかし、軍事を知らない公家衆に、天皇が都を出ることを反対される。ここに万策が尽きた。大阪府桜井。



次の決戦で死を覚悟した正成はここ桜井で息子の正行に別れを告げたと言われている。延元元年5月、正成は残った部下と共に自決。勝利した足利尊氏は、室町幕府を開き再び武士の世を築いた。



建武の新政は、足利尊氏が兵をあげてわずか2年で終わってしまいます。そして、後醍醐天皇は、吉野(奈良県)に逃げ(南朝)、足利尊氏は京都に光明天皇(北朝)という新しい天皇をたて京都に幕府を開きました(室町幕府)。


これにより、南と北で2つの天皇が誕生してしまうことになります。そして、武士達が60年もの間、南と北で争うことになるのです。これを南北朝の争乱といいます。


『南朝こそ正朝なり』尊氏に敗れた後、吉野に逃れ南朝を開いた後醍醐天皇。


しかしその後醍醐天皇も正成の死から3年後、病に倒れる。後醍醐天皇が崩御すると、慰霊のために天龍寺を建立したのは敵だった尊氏だった。


鎌倉幕府を裏切り、天皇に逆らい、そうして室町幕府を開いた足利尊氏。


尊氏は時代の流れ中で、武士の棟梁として役割を貫き、歴史の歯車を回したのであった。もしあの時、正成の進言を後醍醐天皇が聞き入れていたら・・・尊氏と正成が手を組んだ新しい時代が訪れ、戦国の世は訪れなったかもしれない。それはどのような世になったのだろうか。



だから正成の像は皇居にあり、現天皇が北朝・・・とする見解もあるが全く間違いであり、天皇家は『南朝』ということにのです。



足利尊氏はまた『天皇になろうとした武士』としても有名なのですが、ひたすら天皇家を支えた楠木正成は未だに天皇家から熱く保護されているのです。




◆応仁の乱



室町幕府の8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)のころには、徳政令(とくせいれい)といって借金を返さなくていいよ。


という命令を何度も出すことになるんだ。借りている方は大喜びでも、貸している方にとっては大問題だよね。しかも、借りている方もその時は良くても、実は後で困ることになる。だって、貸している側は、もう二度とアイツに金貸さない!ってなちゃうもんね。生活に困っても、もうお金を借りることは出来なくなっちゃうわけ。


とはいえ、この徳政令っていうのを出すのにもちゃんと理由があった。農民に借金が増えると一揆といって暴動を起すことがあったんだ。そうなると幕府は農民からの税がとれなくなって幕府のお金もなくなる。じゃ、返さなくていいから、ちゃんと働いて税を納めてねっていうわけですね。しかし、これが何度も繰り返されるとさすがに社会は混乱してきます。


応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。


室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。



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下記は応援している『みな』さんのサイトです。当サイトより無難・安全です。生活情報はお役に立つ・・・知ってて損のない情報かと思います。

最新のニュースと生活情報を知る
http://mi--ma.blog.so-net.ne.jp/


明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。


十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。


楠木正成の像から・・・彼は忠義を尽くした武士・・・足利氏は逆賊・・・という構図が見えてくるではないですか?


結局、応仁の乱は単なる武家間の権力争いだったのですが、足利家の野心は、尊氏の初代から正成の衝突を見ていると良く分かるような気がしますね。




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巨大地震の前兆地震はフィリピンや台湾で起きているのに無視する日本人? [地震]

連休で海外に出かける無防備日本人ば多いのですが、
日本の治安の良さが世界的にみると異常なのです。



この異常に中々気付かない日本人・・・スリランカのような
事件はどこでも起こる可能性があるわけです。
ヨーロッパもテロで大変危険が時期ですが・・・。


外務省 安全情報ホーム
https://www.ezairyu.mofa.go.jp/tabireg/agree.html



地震に対する危機管理も同様です。

東日本大震災311の時もニュージーランドやインドネシアで
地震が発生していたのです。


学者は自身で解明されていない理論は公表しませんが、アジア
の地震と日本の関連は彼らがわかっていないだけなのです。

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◆アジアで起きている前兆地震 マニラから約80キロ離れたクラーク国際空港は、天井が崩壊したため 閉鎖された。ビルや家屋内に居た人々は、大きな揺れに気づき避難し た。マニラ市内の鉄道も運行を停止し大規模な渋滞が発生した。 フィリピンでは今後も大規模な地震の発生が懸念されている。政府はメト ロマニラを直撃する恐れがある巨大地震を 「ビッグワン(the big one)」 と呼び、対策を呼びかけている。フィリピン諸島は世界で最も地震活動が 盛んな環太平洋火山帯の一部だ。 環太平洋火山帯は、太平洋の周囲を取り巻く火山帯で、世界の地震の9割 はここで起きている。これらの地域では海洋プレートと大陸プレートが衝 突し、重い海洋プレートが沈みこむことで地層の褶曲(しゅうきょく)が 起こり、火山活動や地震の原因となっている。 メトロマニラは約97キロに及ぶウエストバリー断層(マリキナ断層)の 上に位置しているが、この断層は400年ごとに動くとされている。前回の 巨大地震の発生は1658年のことで、専門家は新たな巨大地震がいつ襲って も不思議ではないと警告する。 想定される地震の規模は最大マグニチュード7.6という巨大なもので、 3万5000人が亡くなり数百万人が被災すると予測されている。今回 の地震は比較的小規模なものではあったが、フィリピン政府や現地 の人々は、ビッグワンの発生に備えて警戒を続けている。
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